苦痛は公理系にあたるか。
ユークリッドと非ユークリッド。
絶対的な前提と思われるものも実はそうではないという事。
絶対的な前提と思われるものも実はそうではないという事。
消失点の遠いパースで描かれた二本の線を近くで見ると平行に見える。
しかし俯瞰して見ると確かに消失点に向かっており、実は平行ではないということが明らかになる。
しかし俯瞰して見ると確かに消失点に向かっており、実は平行ではないということが明らかになる。
永遠に続くと思われていた平行線も交わることがある。
苦痛ありきの世界があたりまえだと、常識だとされてきた私たち。
弱肉強食のサバンナの世界なんかをまるで生命の輝きのように映し出す番組。
私はああいう番組がただただ怖い。吐き気がする。
弱肉強食の世界をあんなふうに美しく見せるのは、苦痛を我慢させたり、犠牲ありきの世界に違和感を持たせないための支配に都合のいい教育にしか思えず。
思えば苦痛は支配の起源だ。
苦痛ありきの世界があたりまえだと、常識だとされてきた私たち。
弱肉強食のサバンナの世界なんかをまるで生命の輝きのように映し出す番組。
私はああいう番組がただただ怖い。吐き気がする。
弱肉強食の世界をあんなふうに美しく見せるのは、苦痛を我慢させたり、犠牲ありきの世界に違和感を持たせないための支配に都合のいい教育にしか思えず。
思えば苦痛は支配の起源だ。
生存のため、逃げるために苦痛が合理的だと言うのなら、生命の進化は苦痛の進化だったとも言える。だからこそ現在こんなにも苦痛の多様性が広く、深度が深すぎるのだろう。
喜びだけで、安心だけで、生存に合理的な方法もあったはずだ。
けれどこの地球の生命史は苦痛の存在を、概念を、許してしまった。
けれどこの地球の生命史は苦痛の存在を、概念を、許してしまった。
苦痛の起源はどこだろう。思いつきやすいのは、捕食がはじまったときだろうか。
苦痛があるから恐怖があり、恐怖があるから支配や搾取がまかり通るようになってしまった。
苦痛があってこその生命?
苦痛があってこその生存?
苦痛があってこその進化?
そんな公理は認めない。
そんな公理は認めない。
そうじゃない世界があることを、私は知っている。
これは、科学や物理学が今ほど進歩していなかった時代の人が、リンゴは上から下に落ちることをただ「知っている」のと同じ感覚。もしくは、現代人でも、無線で繋がるリモコンやWi-Fiがあることを、専門的に学んでいなければ、理屈も理論も科学もわからず、それでもただ現実として其処此処にあるからそれがあると「知っている」のと同じ感覚。
私にとってはそう。
否定する言葉ならいくらでも思いつけると思う。
それでも、私は「知っている」。
捕食などなくても生きられていた時代のことを。
犠牲などなくても生きられていた時代のことを。
喜びと安寧で満たされていた時代のことを。
非ユークリッドの世界を。
私はただ、知っている。
2023年8月11日金曜日